2年振りにネパール国・サララヒ村・小学校訪問をしてまいりました。
ベトナム国の目覚しい発展に比べて目立つ変化はみられず、相変わらず首都・カトマンドゥの排気ガスにはマスクも数時間で薄汚れ、毎日、8時間の停電、ホテルの洗面の蛇口から流れ出る水は薄いほうじ茶のような色という状況は変わっていませんでした。
早朝6時にカトマンドゥを車で出発。道中はさながらロデオのような揺れ、もとよりガードレールなどない山道はふと見れば眼下はゾッとするような崖ふちで同行のネパール人も気分が悪くなり、途中短い休憩をとりながら約10時間の旅となりました。
村に到着すると、点在する家々から、子どもたちが駆け出て声を挙げながら手を振ってくれました。宿泊先の家では、集まってきた村人、子どもたちの温かい出迎えを受けました。
人々と両手を合わせての「ナマステ」の挨拶を交わし、ハグと片言の英語で交わす再会のひととき。子ども達は、摘んできた一輪の花を手に、背後からそっと私の肩を叩いて、教えられた日本語「ありがとう!」を言いながら手渡してくれます。私も2年の間にすっかり成長したひとりひとりの顔を思い出しながら、「ナマステ!」と、返しました。
村の生活はなにも変わっていませんでした。
夜になると、村中の人々が集まって仮設の舞台でサララヒ村出身の国民的音楽家パンチャ兄弟による「バンスリ(竹笛)とタブラ(太鼓)」のコンサート開催。大きな焚き火を囲んで朝まで歌ったり、踊ったり、年に一度の祭のような騒ぎでした。
翌日は、10周年の記念行事のため早朝から約350名の児童が近隣の村々から 通学して私達を待っていてくれました。
東京より寒いと感じた気温の中で、幼い児童達は先生、上級生の号令に従ってのピシッと整列。こちらも背筋が伸びるほど見事でした。(2013年1月現在の通学児童365名、寄宿舎で生活する内戦孤児・孤児32名)
2年ぶりの学校の敷地内は、レンガの塀が7割程度完成、校舎にそぐわないほどの立派な門扉がありそれは有力者の寄付とのことでした。
校長先生から、私達の紹介、現地の支援者の挨拶があり、私達が児童全員に、カトマンドゥで購入してきた土産のノート、鉛筆、菓子が配られた後は 校庭で子ども達との賑やかで楽しい交流が始まりました。グループごとに分かれた輪の中に私達も誘われて「鬼ごっこ」「ネパールのダンス」等に、仲間入りさせてもらいました。
その後、校長先生、年長の児童の案内で、ラフーの支援で建てられた校舎、内戦孤児たちの念願だった男女別の宿舎、各教室を案内してもらいました。
支援者より寄付された中古のパソコンが4台あるものの1台は壊れており、さらに電力の供給が不足で活用される機会は少ないとのことでした。
教室は、未だ充分な教材がなく、教科書も紙質が悪い上に、部数が足りず、一部の児童は一冊の教科書を二人ずつで見ながら勉強しているそうです。チラシか雑誌の絵を模写したのでしょう、色鉛筆で描かれた絵の前で誇らしげに写真をせがんだ子どもたちが可愛く印象的でした。
今回、ラフーから持参した世界地図5枚は、大変喜ばれました。各教室の壁に貼られる唯一の教材となることでしょう。
以前、寄付した校庭の2人乗りのブランコは、300名以上の児童の遊びに耐えられなかったようで、既に壊れて使えなくなっていました。 1台のシーソーと数個のサッカーボールだけが遊具です。 児童の体育指導のために、何台かの高さの違う鉄棒の設置を提案しました。
久しぶりに再会した内戦孤児達の表情は、どの子も穏やかで伸び伸びとしており、人々に愛されていることが分かり何より嬉しく思いました。
開校以来、10年間、殆ど無報酬で子ども達の教育、小学校の運営に携わってきた ベッツ校長(女性・38歳・独身)は、大変優秀な方で、都会の多くの学校からの招きを断りながらこの村にとどまり、貧しい子ども達の教育、孤児達の保護に身を尽くしてきた足跡を改めて知ることになりました。 内戦孤児の子ども達を親族が引き取ることで、政府より些少の援助金がでるということで引き取ろうとする人達の徹底した調査をはじめ、孤児の保護のために闘っていることも知りました。 子どもたちへの深い愛情と強い信念で小学校の維持に努めてくださった、10年間のご苦労に感謝し記念に、日本の腕時計をプレゼントしました。
ベッツ校長のお陰で、私達の支援した学校もここまで維持され周囲に認められるようになったことは過言ではありません。 自分のものは、ほとんど購入することのないベッツ校長は、目を丸くしながらも、直ぐに腕にはめて「生涯、大切にします。」と、喜んでいただきました。
2013年1月 視察報告
LAFFOO代表 宇田浩子
追記: 以前、報告の中にあった母親と一緒に爆撃に遭い、母親は死亡、全身大やけどを負い奇跡的に助かった女の子の固まっていた指先は、この2年間、私の代わりに訪問してくれた中西明子さんの個人的な援助(13万円)で、インドでの手術が成功し、右手の第二関節から先の指先は大分動くようになり、幾度も動かしながらみせてくれました。大変、辛い手術に耐えた様子を通訳から伝えられました。だ握った形で固まっている左手の指も手術で開くことができるようです。中西さんの温かい両手に包まれると、女の子はただ大粒の涙で感謝の意を表し中西さんもただ、しっかりと抱きしめていました。しかし、これほどの火傷は、この先、時期をみて幾度か辛い手術を受けなければならないそうです。